【人生の物語を創るのは私たち自身】
私たちは私たちの自由意志で
私たちの経験したいと思う、
自ら計画したシナリオを描いて
生まれてくる。
では私たちは、
そのシナリオの導く通りに生きるだけの存在なのか、
という疑問が生まれるのは当然だ。
私は私の真実として伝えよう。
私たちはシナリオ通りに生きる傀儡ではないと。
なぜなら、
私たちには神から与えられ、
決して取りあげられることのない
自由意志があるから。
神は私たちに自由意志を与える立場。
私たちはその自由意志を行使する立場。
例えば、
私たちの目の前に
選択肢が二つあるとする。
生前のシナリオには、
「愛を基に選択する」
と書いてあると仮定した場合、
それでも私たちには
自分さえ良ければいいという
エゴで選択することが可能なのだ。
神は自由意志を与えた以上、
エゴで選択して
私たちがエゴまみれになっても、
口出しをしない。
逆に、
生前のシナリオには、
たとえ「エゴで選択する」
と書いてあるとしても、
私たちは、シナリオ通りでなく、
愛を基に選択することができる。
その時、
天の神々は、
私たちには聞こえずとも、
喝采をもって、
悦びに沸くだろう。
自らが計画してきたシナリオは
確かに私たちの人生を方向づけはするのだが、
シナリオ以上に私たちの人生という物語を決定する
重要な鍵を握っているのは、
自由意志に他ならない。
誰もが自分で自分の人生の鍵を持っているのだ。
私たちの内奥には、
神的愛が埋め込まれ、
私たちに発見されるのを待っている。
外側にはない。
自身の内側に沈潜し、
勇気と覚悟をもって、
自由意志で愛を基にして
自らの鍵で扉を開けるのだ。
痛みが伴うこともあるだろう。
が、その扉の向こうで、
愛と自由の統合された世界、
人生の醍醐味が待っている。
その時、
内側の扉の向こうが
私たちが愛してやまない
神々の天に通じていることを思い出すだろう。
だが、急がなくてもいい。
最善のタイミングで、
「ああそうか、思い出したぞ」という時は、
もたらされるから、
ゆっくりでいい、ゆっくりがいい。
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